明日
入籍を目の前にして言えること。
「得るは捨つるにあり」
変わることは、今までを捨てて新しくスタートを切ること。
だから、籍をいれることも、後輩の異動も、引越しも全部、新しい自分に必要なんですよ。たぶん。
新人からの脱出
入社1年目を終えて
社会人2年目になり、いよいよという感じ。
この一年はあっというまで、先輩の数々の指導も実を結んだかは怪しく、期待通りの成長を遂げたのかはわからない。
私の指導を担ってくれた2人の先輩社員は、それぞれのカラーがあるにせよ両名共新入社員である私を本当に熱心に指導してくれた。
日々生まれる疑問点にはきちんと対処してくれて、業務の基本に関して、本当に手間をかけて教えてくれた。
分析も測定も実験も、一つ一つ手順を追っておしえてくれた。
きっと、自分の業務に追われる中での指導だったから、しんどい部分もあったんじゃないかと、いまになって思う。
本当に自分は恵まれていたのだ。
その期待に全て応えられたかは不明だ。
OJTトレーナー研修を終えて
今、私は新入社員を指導する立場になった。サブトレーナーだけども。
きっと、分からないこと知らないことは、たくさんたくさんあると思う。
勉強すべき点もたくさんあるんだろう。
それでも、新入社員に一番近い目線に立てる唯一の存在なのかと思う。
きっと2年目の僕は、1年目にサボったツケがまわってくるのだろう。
日々そのツケに追われて、悩んで苦しむのが想像される。
そんな日々を過ごさぬように、自分の失敗等も含めて、新入社員に伝えられたらなと思う。
人生初の一人暮らしを控えて
26歳にして、人生初の引越しである。
大抵の人は、大学入学とか早ければ高校の寮にはいるタイミングなんかで、一人暮らしを始めると思う。遅くても、社会人になって、新生活を一人で始める人が大半なのかもしれない。
私は、この年まで一度も引越しを経験していない。
小中学校はもちろん実家から徒歩圏内で
、高校は自転車で15分弱の通学だった。現役浪人と、計4つの大学を受験したけれど、府外にある2つの大学にはおよばず、実家から通学可能な府内の大学に決まった。そんなこんなで大学院を含め、6年間は実家から通学していた。1時間もかからず通えてしまうため、一人暮らしのタイミングを逃してしまった。
そして昨年、全国転勤がある会社に入り、配属を言い渡された。しかし、そこでも勤務地は大阪で、しかも実家から40分で通える立地であった(大学よりも近いw)。2年目以降はおそらく、転勤の伴う異動が高い確率であるとゆわれ、いよいよ2年目から一人暮らしかぁと考えていたが、そこでも期待は裏切られた。
結局、2年目を控えた現在まで、小中高大院社会人すべて、1時間圏内の場所にしか通っていない。
意図的に選択したわけではないけれど、自然とこうなってしまった。そういう運命なのか無意識に選んでいたのか、それはわからないが。
明日、大阪市内で一人暮らしを始める。
転勤ではないし、職場も変わらないけれど、そろそろかなと思い部屋を契約した。
この年になって初めての一人暮らしなんて、恥ずかしい限りだけど。
新生活で、いままで気づかなかったことに気付けたらいいなと思いました。
文章のゆくえ
知人が仕事の関係で悩んでいた。
悩むというより、現実を悲しんで、ひどく落ち込んでいた。
ネガティブの負の連鎖で、悲しいことにウジウジと悩んでる自分にも嫌気がさして、悲しさ倍増という感じだった。
私はふと、ネットサーフィン中に見かけたブログのURLを送ってみた。
ほんの軽い気持ちで。
すると、それまでどんな励ましも効果がなかったのだが、そのブログをきっかけに元気を取り戻した。
彼女は、そのブログの中から何かきっかけを掴んだようだ。
個人的には、送ったブログはあんまりいい文章じゃないかな、と思っていた。
ブログのタイトルと最初と最後で話の着地点がいつの間にか変わってるし、例え話が絶妙!みたいな感もない。
だけど、彼女は、その文章で元気を取り戻した。
きっと、そのブログの主張である「人の幸福は自らの意思決定の程度で決まる」的な主張が、彼女の抱える問題解決の糸口になったのかもしれない。
名文で無くても、その瞬間に一番ほしい一言が明記された文章で、彼女は救われたのだ。
いろんな人が、いろいろな目的で文章を書く。
筆者独自の世界観で、読み手を感動させるような名文だったり、論理的に構築された文章で持論を多くの人に伝えたり。
感心するくらい、きれいで、筋の通った文章が沢山ある。
でも、彼女の悩みを救ったような、「論理矛盾はあるけれど、伝えたいことが伝わって、読み手にアクションを起こさせる」みたいな文章が、僕は好きだ。
洗練された文章も、伝わらなければ書いてないのと一緒。
だから、批判されたり間違えたりすることを恐れないで、どんどん伝えたいことを文章にすべきなんだなあと、ふと感じました。
死ぬ前に考えること
自分が死ぬ直前に何を考えるか
出身研究室の追い出しコンパにお邪魔させてもらい、すごく感慨深い話を聞いたので。記録としてエントリー。
所属していた頃からお世話になっていた方で、今でもすごく尊敬している先輩がいる。今年博士号を取得し、研究室を卒業される。毎年恒例の「残す言葉」ということで、その先輩からの在学生へのメッセージがあった。
Ph.Dの肩書に絡めて、少し哲学的な話をします、と前置きして
「自分が死ぬ際に何を考えるか」という問いかけをされた。
例えば、論文を探す際に、自分の琴線に触れるような論文には、ある共通点があるという。
それは、研究対象の目的が明確化されていて、そのためのストーリーのまとまり、必要な情報が簡潔に記されているという特徴を持っている。
そんな論文を見つけた時に、鳥肌が立つような感覚になる。
目的の明確化が、人生の使命
スケールは違えど、人生についても同じだという。目標が明確化されていて、そのためのストーリーをはっきりと持つことで、はじめて光るものになる。
自分の死ぬ時に何を考えるか、どういう死に方をするかを考えると、そのストーリーが自然と分かる。そして、自分が死ぬ時には、目標とストーリーについて振り返り、「良い人生だった」なんて考えるのかも知れない。
まずは、明確化
人間、目先のことに精一杯になると、先のことはなかなか考えられない。まして、死ぬ直前なんてものは遠い未来のように感じるし、実感も湧かない。でも、でも、死ぬ瞬間は例外なく、誰にでもやってくる。ただ、なんとなく日々を過ごすだけでは、死ぬ直前に後悔の方が多く感じるかもしれない。明確な目標とストーリー。まずは、目標を明確化することで、「最期の瞬間」について考えるのもいいのかもしれないと、お話を聞いて思いました。
チキン
良く噛んで食べる ⇒ 朝の目覚めが良くなる
の法則
体を冷やし過ぎる⇒風邪症状が出る
の法則
通勤定期をなくす⇒実はポケットに入っている
の法則
カレーが食べたい日⇒その日カレーを食べる機会は無い
の法則
レシートを大事に取っておく⇒お金がたまらない
の法則
直前に注文を変える⇒元々決めていたメニューにすればよかったと後悔する
の法則
髪の毛切りすぎた⇒髪の毛そんなに変わっていない
の法則
5分だけ⇒20分遅刻
の法則
嫌われる勇気ってゆうベストセラー
断ることが苦手だ。
典型的な日本人体質だと思う。
安請け合いやダブルブッキングなんかは
最悪の行為だと思う。
社会人としても人間としても
避けるべきである。
しかし、いつだってハッキリと断れない。
もちろん、社会人として自分の気持ち通りに動けない事情がある時は、Yesでいいと思う。そこまで自分の気持ちに固執する必要はない。
けれども、断る余地が十分あるような場面で、結局自分の気持ちに無理をして、いいですよ、なんて言ってしまう。
結果、しんどいってことが多々ある。
あほじゃないかと思う。
なぜ自分はNoと言えないのか。
なぜ自分は無理をしてまでYesと言うのか。
きっと、声をかけてくれた人が
自分に持ってくれている期待感みたいなものを
失いたくないと無意識に感じてるのかもしれない。
それは、体質的なものであって、
断ることで相手に失望されるのを恐れてしまう性格なんだろう。